大人の分別の危うさ

中年の分別 中年という季節

歳を重ねることで「もうこの歳だから…」と分別よく自分を抑える自分が居る。周りに迷惑をかけることもなく目立つこともない平穏さは手に入る。しかしそれでいいのか?という気持ちを抱えている方へ、分別を持ち過ぎることの危うさについて綴ります。


「分別」というのは「道理をよくわきまえていること」を意味します。私たちは歳を重ねると、意識・無意識に関わらず年相応であろうとする傾向が現れますよね。

若い頃は、周囲を気にせず大声で笑ったり、無茶したり、他愛も無いことで感動したり、たまには乱暴な行いがあったり….。こういう様子は青臭いというより、未熟だからできる野性味のような感じかもしれません。そして「若いから…」の一言で許され、多めにみてもらえます。

一方、中年期以降はそうもいかなくなります。
心はまだまだ若く、はしゃぎたいことや冒険したい気持ちも残っているのにそ「分別」という感覚が頭をよぎる。年齢や立場を意識し、歳相応の振る舞いでコトが済ます。まぁ、それが普通なのかもしれません。

ただ、芯の部分から
青臭い感覚がなくなったわけではなく、大人になっても野生の部分は残っているはずなのです。

それをうまく発散するために人はいろんな術を持ちます。
例えば、
スポーツや楽器演奏、演劇鑑賞、それに伴うサークル活動など趣味的なものです。過激なものとしては、岸和田のだんじりなどでもイメージできる「祭り」に熱中するのもその一つです。

しかし、このようなことを意識せず忙殺されていると、“野生の部分”がひょっこり顔を出して収めきれないサイズになることもあります。

例えば、
真面目街道まっしぐらだった人が異性に狂ったり
ギャンブルにはまったり、
会社のお金を使い込んだり・・・。

大人の分別もいいけれど
それが過ぎると、逆に危ない事態を引き起こしたようなニュースを目にすることもあります。

このように、自分のコアな部分を見ずに人生を進めると、大変なことが起こりかねません。それは、他人に迷惑をかける…というよりも「こんなはずではなかった」…という後悔に繋がるような無念さです

そのためにも「大人の分別」と「野生の部分」のバランスを意識して居たいです。

ただ、そうは言っても先の見通しのつきにくい今の時代、「野生の部分」なんて言われても困る…というのが本音だと思います。

スポーツや映画、演劇ライブ…他、熱中できるものを持てるなら、それに越したことはありません。しかし、これから考えるという人はスグに思いつかなかったりします。でも、いつからだって遅いと言うことはない。

 最近、常識的に振る舞いすぎてない?
 人の目気にしてしたいこと抑えてない?
 表情かたくなってない?

まずは、自分に野生の部分があることを思い出すことから始めてみる。
それだけでも日々の風景が違って見えて来そうです。

タイトルとURLをコピーしました