人が人を躾けるということ

人が人を躾けるということ 子育て・親育ち

躾けることの難しさについて実感し、ズッコケながらも、こうするといいのでは?という筆者の経験も交えて感じていることを呟いています。


「躾ける」という表現….なんとも傲慢な響きを感じませんか?

辞書には
・良い方向へ導くこと
・教えて身につけさせる
などと書かれてあります。

総じて、未熟な者に対し熟達した者がある事柄ができるようになるため教え導くことなのだと思います。
また、ミシンで本縫いをする前に用いる「仕付け糸」にも通じる表現らしく、作る側の意図するように型をつけるとも受け取れて、ちょっと複雑な思いも湧いてきます。

ここで、躾けにつながる私の経験を少し書かせて頂きます。
娘が3才の頃
仕事を終えてスーパーで夕飯の買い物をしていたときのことです。私は、うっかり娘から目を離して買い物に集中していました。そんな時、お客さん数人の視線がある一点に集中しているのに気づきました。何かな?….と視線の先を見てみると、娘がいたのです。総菜売り場のコロッケをムシャムシャ食べているところでした。。娘の目の高さにあったにコロッケを見つけたわけです。

“早く、急いで、、、”と急かして保育園を後に、忙しくセカセカしていた私は、 娘に余裕をもって接することができていなかったのです。「お母さん、お腹すいたよぉ。」というスキを全く与えられていなかったと反省しました。

その後も大型スーパーでちょっと目を離した隙にお菓子売り場からチョコを持ってきて、休憩所のイスで おいしそうに食べていたことがありました。食べかけのチョコをレジに持っていき、二人で謝りお金を払いました。

2、3才頃までは自分のモノと他人のモノの区別がハッキリついていなくて こういうことはありがちなのはわかっていましたが、かなり焦ったことを覚えています。
その後も何度となく「お店のものは、お金を払ってからね」と 言い聞かせたことが今では懐かしい思い出でもあります。

目線を下げる

このように未熟であるがゆえ、知らずにやってしまっていることは、次元は違えど大人の私たちにもたくさんあるように思います。それなのに、できるようになった者が上から目線で自分の都合で仕付ける(躾ける)….というのはどうなのだろう?と感じるようになりました。

チョッと先を歩いているから、デキるようになっているだけのこと。仕付ける…..なんて上からの目線は、未熟だった自分を思い返すと恥ずかしくもなります。「仕付ける」より「身」を「美しくする」方の「躾ける」姿勢が取れているか….時々振り返りが必要だと今更ながら思います。

目線を下げて接することでこちらの気持ちも和らぎ、躾ける態度が変化することで躾けられる側の気持ちも変わり、受け入れやすくなるのではないかと思ったりします。

繰り返しの声かけがポイント

幼児を育てていると、お友だちのおもちゃを勝手に取るシーンを見かけることがりますが、 これは仕方のない行為だそうです。ふぅちゃん-5他人のものと自分のものを区別をつけたり、他人に何かをゆずってあげる…….などの自制心は 6才頃にやっと出来上がるからです。ですから、このようなことが起こった時は、「またぁ、この間も同じこと言ったでしょう!!」などと言わずに 、どうすればいいかを何度も何度も繰り返し言ってあげることが必要です。そうして“我慢する”ということを理解し、いつしか 社会でのルールが身について行きます。
根気よく何度も繰り返す・・・・というのがポイントなんですね。

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