物心着く前から無意識に刷り込まれる平均感覚。それが選択や決定に及ぼす影響はどのくらいあるのだろう?そして、今後の人生を考える時のベクトルにどう関わるのか? (2021.02.28メルマガより)
日本人の平均感覚,平均感覚,みんなと一緒,目立たない,ノーマル 小学生の頃のこと。
「今回はよくできた!」・・・と 喜び勇んで持ち帰ったテストを見せると 「平均は何点やったん?」と母からきかれた。
平均点が高いと知った母から 「みんな良かったんやね」と返ってきた。
なんてことない親子の会話です。 でも、 こんな些細な会話からも私たちは平均という感覚を刷り込まれているのではないだろうか?
母からの 「みんな良かったんやね」という言葉に意気消沈しながらも当然の反応だと感じ、問題などと思ったことはありませんでした。
ただ、 改めてこの反応を振り返ると「前より手応えあるデキなのか?」 を問うてはおらず 「平均点より上か下か?」 「クラスの中でどうだったのか?」 が判断されています。
クラスみんなの点数が良かったのだから、自分の点数が高くてもデキとしては大したことはない、と私自身も思い直す感じでした。
そしてこういう親の反応を私も受け継いだのか娘にも同じ反応をしていたと思い出しハッとしました。
幼い頃の何気ない親子の会話から空気を吸うように平均感覚が養われていくのかもしれないと思いました。
良し悪しは別にして いろんな意味で平均がベースとなり、そこが居場所と化していく日本人の国民性。
・平均より上の学校 ・平均より上の収入 ・平均より上の住まい ・平均寿命を全うするための平均貯蓄額
・・・など、 平均という感覚に揺さぶられる私たち。
所属の中では 平均より下でも上でもなく、突出しない様子を醸し出す術も身につけなければ、居場所確保が難しくなることが多いです。
社会に出て 「え?これっておかしくない?」と疑問に思うことがあっても、周囲を見て湧き上がる違和感をスルーしたことはないですか?
「みんな、何も反論ないの?」 「(違和感を持つ)私がおかしいの?」
・・・問題意識を持つ人は面倒な人。 そう思われることを危惧して疑問を口にせずアイデンティティは薄まっていく。
そうして場に馴染むようどんどん丸くなり、どんな方向にも転がれる人が出来上がるのかもしれないし、その方が日本社会では生きやすかったのかもしれません。
ただ、 これは過去形になりつつあります。
なぜなら 平均化によって足並みが揃い、成長した日本ではあるけれどコロナ禍を経験したことで、以前にも増して多様な社会へと拍車がかかったように感じるからです。
・男性 or 女性 or その他 ・障害を持つ or 持たない ・車所有 or レンタカー利用 ・テレビニュース or ネット上での選択的情報入手
加えて ・出勤 or 在宅
在宅ワークはメンタルヘルスの懸念がありながらも能力によっては、時間が自由に使えるなどメリットもあります。
・組織に所属 or 仲間と一緒に or 一人起業 など働くスタイルも選択できる時代になりつつあります。
これまで当たり前に強いられて来たことも選択可能になりました。 逆に言うと、選択しなければならなくなりました。
選べる自由・選ばなければならない負担
平均感覚を持ち、周囲と同じ選択をしていれば生きていける時代から、 自ら情報を取りに行き、自分の頭で考え、行動する時代に入りました。
見栄やプライド、周囲からの見る目を最優先に考えていると、引いては寄せる波のように迫りくる生きづらさを越えられない日がやって来ます。
「あなたはどう感じますか?」と聞かれて、 「みんなと同じです」なんて答えることは出 来ない多様性が求められる社会。 私は何に囲まれて暮らしたいのか? 私は何に心地良さを感じるのか? 私はどんな場所を巡りたいのか? 私は何に時間を使いたいのか? 私は誰と過ごしたいのか? 私はどんなふうに歳を重ねたいのか? 私は何を目指しているのか?
正解なんてない、 まずは自分の感覚を拠り所に思いを巡らせよう。
これらの問いは ・時間ができたら ・お金が貯まってから ・子どもの手が離れてから
・・・といつまでも後回しにできないこと。
人生100年時代と言われるものの 死ぬ直前まで快調でいられる人は少ないはずです。
人生の正午を過ぎると、 精神はともかく、身体的老いは避けて通れず、 そう考えると 実際の可動域はそんなに長くないのかもしれません。
さて、 あなたの平均感覚 これから どう扱っていきますか?
コメント