没頭できる楽しみを見つけたい

メルマガより


人生を楽しむため、没頭して取り組めるものがほしい。何故かそれが見つからない。いや、見つからないのではなく、ちゃんとあるのに、その気持ちを妨げる無意識の制限があるのかもしれない。その、無意識の存在を掘り下げます。
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相談を受ける中で
「したいことが見つからない」というお悩みを聴くことがあります。

日常レベルでの
「何が食べたい?」
「どんな映画を観たい?」という類いの欲求ではなく

社会人生活が落ち着いてくると
人生が深まるような継続的な楽しみを求める人も多くなります。

それは生き甲斐とも重なるかもしれません。

時間に余裕ができてから、それを探し始める人も多い中、
早くから没頭するものを見つけ、人生を謳歌している人もいます。

羨ましい限りですが、
それには何か心がけがあるのでしょうか?

そこで今月は、
「したいことが見つからない」ことの背景を探り、
楽しみが見つかりやすくなる思考について考えます。

ここで言う「楽しみ」と言うのは表面的なものではなく、
ある程度の年齢になれば自然に求める、人生の充実につながるようなことです。

この点では、文部省でも1990年から生涯学習という形で取り組みがなされてきました。人格を磨き,豊かな人生を送ることを主旨にしたものです。

2022年度内閣府の調査では、生涯学習を始める理由として

・仕事での必要性   49.4%に継いで
・人生を豊にするため 38.7%
・教養を深めるため  34.0%

と人生を見据えた理由も大きな割合で報告されています。

この数字からもわかるように、実際に取り組む内容は個々違っても、人生の道のりに求めるものには共通するものがあるように感じます。

一方、
それらに積極的に取り組む人が多くなる中、
「したいことが見つからない」という悩みについて「その気持ち、わかるなぁ…」と
同じ思いを持つ人もいるのではないでしょうか?

ここでまずは、
「したいことが見つからない」というフレーズの、意味するところは何なのか?につ
いて考えました。

カウンセリングの中で浮かんできたのは、
欲求に対して「見えない制限」があるのではないか?ということです。

見えない制限とは?

これが、
今回のテーマでもあります。

欲求を制限していると想われるその正体を先にお伝えします。

それは
したいと思っていることが「実益に繋がるか、どうか?」という判断です。

つまり、
その欲求を満たして得になるのか、どうか?のジャッジが「したいこと」を実行させないように邪魔しているという意味です。

無意識に強いた制限によって欲求を諦めたり、なかったことにしてしまう。
それを続けている内に、したいことすら浮かんでこなくなり、果ては「したいことが見つからない」という発言になるのかもしれません。

それなら、
その無意識の判断に気づき、そこから解放されると、自ずと楽しみへの欲求が現れてくるのではないか?

そんな期待もあり
この判断軸について掘り下げます。

欲求について

まず私たちの欲求について
ここでは、2種類を挙げます。

一つ目は実用的な欲求
例えば
収入や資格取得に結びついたり、他人からよく見られるなど、何らかの利益に関わるものであり、必要に迫られ発動することが多いです。

二つ目は純粋な知的欲求
これは、興味がそそられ、利益に繋がるかどうかはわからないが
ただただやってみたいと関心が向くものです。


多くの人が、日々、家事を含めた仕事や雑務で時間は過ぎていきます。
忙しさに紛れて「何がしたいのか?」などは二の次になってしまう。

そして、抱いた欲求実益が伴わない場合、見逃しやすくなるわけです。

たしかに、社会人になると、
ある程度の職業人生が確立されるまでは実用的な欲求が優先されるのも理解できます。

ただ、
そのスタイルだけで進められた歩みは、後半で行き詰まりを感じるようになります。


その点、仕事が生きがいや人生の充実にピッタリ重なっている人は幸せです。
この重なり具合で、楽しみを探求する気持ちも左右されるのだと思います。

楽しみへの探求を進めたい人は、純粋な欲求をキャッチする意識を高くしておきたい
ですよね。

さて、
あなたは、これまでを振り返り
「実用的な欲求」と「純粋な知的欲求」のどちらを優先して来たと感じられますか?

長年、実用的な欲求を優先してきたのなら、
今後は純粋な欲求を実践に移しても良い時期に来ているのかもしれません。

それというのも、
実益を求め突き進んで来た人が、楽しみが見つからないことについて話される時、
「空虚」というワードを耳にすることが多いからです。

「空虚」というのは、「空っぽ」とか「拠り所がない」という意味です。

深める楽しみがないまま、
熟年以降の人生を迎えた人からの悩みの中で聴かれるこのワードは、
迫って来る高齢期を心配する思いとも重なります。

たしかに、
「時間とお金はあるけど、やることがない」という現実が突きつけられる日々が過酷だろうことは、想像できます。

それに対して、
「余裕があるならゆっくり過ごせばいいんじゃないの?」と言えるのは、
やらなければならないことや、体力・気力があるからではないでしょうか。

やることがない…というのは、
ある意味「苦行」です。

そこで私が思うのは、

将来を楽しむためのお金を得る目的で、
現在に過剰な忙しさを負って、時間をなくすのなら、

将来へそんなにお金を残さなくても、
現在を楽しみながら過ごしても良いのではないか?


そうすれば、
プラスマイナスゼロにはならないだろうか?ということ。

いや、もっと言うと
安心のために目の前の楽しみを諦めるのはマイナス(後悔)にならないか?

先延ばしにした欲求を楽しむため、高齢になった自分に、
どのくらいのエネルギーが残っているのだろう?と想像すると私は自信が持てません。

ひと昔前の高齢期と今後のそれとが違うのは、誰もがわかっていますよね。

一般にいわれる高齢は65歳からなので、
その後、命尽きるまで数十年あるわけです。
体力・気力・時間が今のまま継続しているとは考えづらいです。

なるほど、
高級住宅に住み、
高価なものを身につけ、
毎日美味しいものを食べ続けるには、お金は必須です。

しかし、これら目に見えるものは、
他人から豊かだと評価されやすい象徴的な材料ではあるけれど、
深まる興味関心がないなら、その生活に飽きが来るのは時間の問題
です。

私の思う楽しみというのは、
何も大枚をはたくものではありません。

大切な人に会う時間や興味を持ったことにチャレンジする、
そうして
関心が深まれば続けてみる、その程度です。

楽しみの見つけ方

じゃあ
楽しみの具体的な見つけ方は?

簡単なことです。

道を歩いている時、人と話している時、
TVを見ている時、本を読んでる時、
ネット動画を観てる時など

入って来た情報の中で、ほんの少しでも、
興味のアンテナに引っかかったもの、それ
をしっかりキャッチする。

私たちは興味関心を持ったものでも、時間
が経つと忘れてしまうことが、実は多いです。

すぐに検索するか、いつも見れるものに書き留めておくなど、
自分なりの忘れない工夫が大切です。

ただ、
興味関心がそそられても、それが続くとは限りません。

例えば私で言えば
ヨガ、ハープ、登山、パステルアート、水引アート、とんぼ玉、・・・思い出せない
ほどたくさんあります。

ほとんどが中途半端です。
興味が続いたらラッキー!ぐらいのフットワークで取り組みました。

その中で続いているのが
手話7年、メルマガ15年、トランポリン20年。

利益に繋がるかどうかなどは度外視して続けて来ました。

実用的かどうか?の判断軸を手放せば、
興味関心のアンテナに引っかかるものはたくさん出てきます。

そしてもう一つ私が大事にしているのは、
人からの誘いや薦められたことにはできる限り乗ってみるということ。

それが何に繋がるのかなどはわかりません。

ただ、実益が伴わなくても、
間接的には何かしらの形で未来に繋がります。

無計画にしたことを、後づけで
「ここに至るためだったのか」と振り返ってもいいと思います。

私たちは、親からの教えや一般常識・多数派の意見、
それらによって作り出された「正しさ」で、湧き上がる欲求を抑えがちです。

もしあなたのチャレンジに対し
「それをして何になるの?」と問われても
その相手が納得できる答えを用意する必要はないと思います。

それよりも
実益に向けた欲求と、
湧き上がる純粋な欲求のどちらを優先するのか?について多忙な中でも、考える時間を持っていたいです。

メルマガ「生きやすさのヒント!」第185号 2024年5月配信分(したいことが見つからないのはなぜ?)を転載したものです。

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